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早く、かえってきて


「いやぁ…そうは言われても…知ってのとおり、すぐに帰れないのは君も承知だろう…?」

―― 役立たず!

そう罵りたい気持ちを抑えて。衛星回線、それをぶった切りたい気持ちを乗り越えて…。
握りこぶし…爪がささるほど、握りながら…久しぶりの夫とモニタ越しに対峙。

遠い遠い、夫の勤務地。若い頃は寂しくて仕方がなかった。一人息子を抱えてからのワンオペ育児、辛くて仕方がなかった。
…でも、今ほど困った事はない。逃げたい…なんなら私がそっちに行きたい。代わってほしい…ここまで育てたんだから、もう良いでしょう。
後は宜しく。そう言いたい。


「まぁ…でも。浩介はしっかりした子だから…まぁ…うん」

歯切れが悪い。どころじゃない。役に立たない。使えない。
遠く離れた夫。本当に何かをしてほしいわけじゃない。愚痴を聞いてほしい、誰にも言えない、我が子の話を。
あなただけにしか言えないから、だから言っているのに。真っ当に相槌も打てないなんて、本当に使えない。
全く、役に立たない…。

「俺は…うん。浩介を信じてるよ…」

何、この人。寒さで頭やられちゃったのかしら。口を一文字に締めて、なんか言ってる。浸ってる。
信じるとか信じないとかじゃないのよ。そう言う問題じゃないのよ。何もわかってない、ああ、使えない。


早く、帰ってきて


「あら?青木君は?一緒に行かないの?」

日曜日。「出かけてくる」と息子が外に出ようとする。
あら?青木君が泊りに来ているわよね?浩介、一人で出かけるの?

「ああ、ちょっと風に当たってくる…青木、寝てるから部屋には入らないで」

そういって、玄関先で靴を履く息子。もうすぐ家を出る一人息子の浩介。

「そうは言っても…そろそろお腹すくでしょ?青木君に朝食作ったのよ。後で持っていくわね」

日曜日、朝の8時。平日なら二人とも学校にいる時間。でも、その学校ももうすぐ終わり。
進路も決まり、二人。西方へ進学。ほんと、仲良し。

「部屋に、絶対に。入らないで」

青木君の顔、思い出しながらルンルンしていたら、息子が至近距離。怖い。我が子ながら、怖い。
夫に似ている、息子。昔は可愛かったのに…今は、全く可愛さが無い。
でも、いいの。息子の恋人が可愛いから。そう、喜んでいたのに、息子がその子を連れて西へ行く。
私だって、もっとあの顔を見たいのに…。私、大好きなのに。

夫よりも大きいサイズのスニーカー。それを履いて、玄関の扉を開ける浩介。
サンドイッチ…甘い物も作ろうかしら…。
そう、息子の恋人の顔を浮かべて、キッチンに戻ろうとした私。そこに降りかかる低い声。

「絶対に…部屋に、入るな」

振り返ると、息子。我が家の一人息子。怖い、顔した息子。

「え…ええ…」

念に念を押して、ようやく息子は家を出る。
あら、珍しい。自転車を動かす音がする。あの子がそこまで急いで買い物に行くなんて…。
言ってくれれば私が車を出すのに…。そういえば、どこに行くのかしら…?


サンドイッチ…気合を入れて、イチゴとクリームのを作ってしまった。
進路が決まり、もうすぐ会えなくなってしまう息子の彼氏。…うん、やっぱり私。あの子が大好き。
ほんと、私ってば未だにミーハー。ああいう、きれいな子。大好き。
浩介、ありがとう!あなたの好みは私からの遺伝。気の毒なほど、遺伝。

るんるん。と。息子の部屋へとスキップ気分で上って行く。
部屋に入らないでと念を押された。でも、青木君から出てくれれば問題ないでしょう?
そう、思って声をかけにいく。「サンドイッチ、どうかしら?」って、話しかけにいく。

「う……」

息子の部屋。扉を開けずに声をかけようと思っていた。
そうしたら、聞こえた呻き声。息子の恋人…青木君。どうしたのかしら?体調が悪いのかしら?
「大丈夫?」そう声を出す前に、扉を少し開けた。

声、かけなくて良かった…。


『入るな…って言ったのに…』

息子の部屋。ベッドの上、そこにいた青木君。
あまりの光景に驚いていたら、後ろから羽交い絞め。
自転車に乗って買い物に行ったはずの、息子。いつの間にか私の後ろにいた。背後から、口を塞がれた。

「…こう…すけ?…ねぇ…もう、ゆるして…おねがい…」

息子の部屋、ベッドの上。私の大好きな子、推しの子が横たわる。
目隠しをされて、全裸…のきれいな男の子…が。あられもない姿で…。

「おねがい…ねぇ…これ、とって…」

おねだりする、可愛い子。
とてもかわいそうな子。…だって、縛られている。手と足を黒いマジックテープのようなもので…。
ああ、あれは…サポーター…。息子が部活動でつかっていたもの…。ひどい…こんな。こんな…。

あまりの出来事に、涙が出る。全裸で縛られた青木君。
目を逸らしたけど、見てしまった。白い肌、お尻の方…機械音がした。
卒倒しそう…。むしろ、このまま消えたいくらい…。

―― バチン

息子が私の口から手を外した。その隙に、叩いた。
久しぶり。とっても久しぶりに息子の頬を叩いた。

『今すぐに、青木君を解放しなさい!』

溢れる涙。私の目から、ぽろぽろと。いや、泣きたいのは私じゃない。
なんてこと、何て事をしているの!
そう思って、叱る。息子を叱る。

青木君の自尊心。それを傷つけないように、小声で。
…私に、見られたと。彼に気付かれないように。小声で…。

『部屋に…入るからだろ…』

溜息と共に。吐き捨てる様にそう言って、青木君の元に駆ける息子。
バタン。と閉められるドア。
息子の部屋、その扉。


転げるように…階下へ降りる。
一緒に…食べようと思っていたサンドイッチ。
このままじゃ、乾燥してしまう…そう思うのに、ラップをかける気力が湧かない。
涙…とめどなく溢れてしまう。
ああ、こんなこと…。本当に申し訳なくて…死んでしまいたいくらい。
ごめんなさい…そんな言葉じゃ、詫びきれない…。


昔から…。手のかからない子。
浩介の事、そう思っていた。でも、ちょっと違った。
手がかからないんじゃない。私じゃ、手に負えなかった。

 夢中になると、集中しすぎてしまう…。

よくある男の子の特徴。
うちの子、もれなくそうだった。
でも、なんというか。分別がつくというか…。こう、煩わしい感じではないので…気付かなかった。

初めて、意識できたのは。飼い犬の、季節外れの抜け毛がきっかけ。
息子と犬、とっても仲良し。飼い犬の福ちゃん、浩介が大好き。浩介も福ちゃんが大好き。
そう、それだけだと思ってた。

構いすぎによるストレス…。

え?なにそれ。最初の感想はそれだった。
確かに、構ってはいる。
「…そんな事で、犬がハゲる?」と、始めは思っていた。
でも、よく見てみると、確かに。浩介…ちょっと変だった。

明るい子だから、全く気付かなかった。
ちょっとでも、陰気なところがあれば、もっと早くに気付けた。
うちの子、一人息子の浩介。彼は一点の曇りもなく…重い。

浩介の可愛がり方は、とても深い。…情が深いと言えば聞こえはいいけれど…要は、感情の拡げ方、ぶつけ方が重い。
現代日本の、都会のベッドタウン。人が溢れる住宅街。
そんなこの街で、親と一緒に暮らして飼い犬がいる…。それだけなのに。
世界名作劇場に出てくるみたいに、世界に福ちゃんと浩介しかいない…そんな風に可愛がる。
母を訪ねて三千里…その道中…。それくらいに可愛がる。

一人息子…。こんなものなのかしら?
私自身が一人っ子じゃないから、良く分からないけれど…。そう思って、遠く離れた主人に相談したことがある。

「俺も一人っ子じゃないから、分からないなぁ…」

そう言えば、あの人。むかしっから役立たず。


  ◇


「…おはようございます」

居間で、蹲る様に考え事をしていたら、好きな声。
急いで振り返ると、相も変わらずの美人さんが、ぺこりとお辞儀。

「…すみません。長居して…。夕ご飯も、本当に美味しかったです。ごちそうさまです」

私が浩介を引っぱたいてから1時間弱…。
何事もなかったかのように、青木君が私に笑いかける。
その健気な様子に、胸がきゅううとなる。苦しくなる。申し訳なさ過ぎて、床に頭を擦りつけたくなる。
ごめんなさいって。絶叫したくなる。

「青木を送ってくる」

元凶…。それなのに、青木君の腰に手を回して、嬉しそうな息子。
あまりの怒りに、この場で説教したい。できる事なら、私のお腹の中に戻してリセットしたい。

わなわな…と怒りで震える母の気持ちを知らないで、浩介は玄関先で青木君の頬にちゅってした。
私が見てないとでも思って…いや、私の事なんて気にもしないで、やった。
だから、青木君に怒られている。「何考えてんだ!」って怒られている。

「かわいいな…って考えてる」

うっとりと、真っ赤な顔の青木君を見つめて。我が子が言う。
あまりの光景に卒倒しそう…。青木君ごめんなさい!そう、謝ろうと思った。
なのに、青木君。嬉しそうに俯いた…。

「おじゃましました」

そう、頭を下げて。私の推しの子は家を出てしまった…。
その傍らには、息子がいた。
玄関のドアが閉まった後、思わず、私も外に出た。
尾行…してしまった。


二人、駅に向かうでもなく。人通りの少ない道を選んで進む。
日曜の朝、ジョギングをするくらいの人しかいない。
そんな土手を進む。…手を繋ぎながら。

男子二人…にしては遅い歩み。
離れがたい…そんな雰囲気。名残惜しい…そんなムード。


「縛って…ごめん…。でも、やっぱり。俺は…一緒がいい…」

「…おれだって…」


小さな声。二人。見つめ合って、お互いに見つめ合って小さな声。
でも、聞きとる。なんなら口の動きから読む。
こんなところで役立つ特技。草葉の陰…文字通りそんな所から、二人の様子を私は探る。


「今日は…ここで…。もう、いいから…」

青木君…。そう言って浩介の手を解く…。
浩介、青木君を抱き締める…そして、ああ。こんな往来で、キス…。
やだ…推しのキスシーン…。テンション…あがる。いえ、違う。そうじゃない。

人、居ない。確かに、他には居ない。
でも、私が物陰に隠れている。というか、そもそも外だし、今はいなくても、そのうち誰か来る。
なのに、この子達。宇宙でたった二人っきり…そんな風にキスをする。
ああ、この感じ…。だいたい浩介が原因。まるでバリアでも張るかのように、世界を作り上げてしまう。
ゾーンをつくりあげる…。

「…また、な」

唇、離れて。青木君が呟く。
浩介、そんな青木君を見て苦しそう。泣きそう。ああ、なんてこと。
貴方たち、明日学校で会えるじゃない!何、その今生の別れ方…!

立ち去る青木君の後ろ姿…。それを、映画のラストシーンのように見送る浩介。
エンドロール流れる、感動シーン。
そんな風に、恋人たちは別れる。

明日会えるのに…なんなら、スマホでずうっと連絡取るくせに…。

青木君の家、そこに入っていくかわいい子。
扉が閉まって、しばらくしても浩介は名残惜しそうに見つめる。
それから何分もして…。ようやく、踵を返す。
辛い別れを噛み締める浩介。


「ちょっと…話をしましょうか…」

物陰、そこから出て。息子に声をかける。
私がいるの…やっぱり気づいてたわよね。
さして、驚きもせずに浩介が溜息。めんどくさそうに溜息。

春の息吹…それを感じる、静かな土手。
そこを息子と二人きり、互いに沈黙しながら歩く。
懐かしい…昔はこうやって浩介と…。あの頃は小さい体で…「おかあさーん」なんて言って…。
ああ、ちがう。現実逃避してしまった。
沈黙…いや、言わなきゃいけないことは…訊かなきゃいけないことは…いっぱいある。

「浩介…なんで、あんなことを…?」

一番、訊かなきゃいけない事。まずは、訊く。

冷静になれば、恋人たちの…睦み合い。そう思えなくも…うう…いや。ない。
全裸で緊縛…アブノーマルすぎる。
仲良しねー♡そう思っていた。まぁ、恋人同士なら…手を繋ぐくらい…。
そう思ってはいた。なのに、この子は越え過ぎ。浩介は越え過ぎ!
親のいる実家で、やっていい事じゃない。
いや、恋人にやっちゃいけない。あんな事!

「…青木が、同棲を嫌がるから…」

ぼそり。と息子にしては小さい声。蚊の鳴くような声。
なんとか、聞き取れたけど…その内容に驚愕。
え?一緒に住むからと部屋の手配していたわよね。
連帯保証人にサインしたけど…青木君に同意とってなかったの?

今度、青木さんとランチをする時に、息子たちの同居話をしようと思っていたけど…。
良かった…青木さんに会う前に、話を聞けて…。

「浩介…あのね。あなたが私にとって大事な子であるように、青木さんにとっても想太くんは大事なのよ。
それなのに…あんな酷い事をしたら、青木さんに交際を反対されるわよ」

私の話…。効いているようで黙り込む息子。

「了承も取っていないのに同居の話を進めるなんて、独りよがりすぎるわ。今度青木さんに会うのに、なんと詫びればいいか…」

溜息を吐いていると、隣を歩いていた息子が立ち止まった。

「…母さんが。青木の母さんと仲良いのは…ありがたいけど。あんたらは只の友人だろ。
俺は、青木と家族になるから。母さんの付き合いや、世間体よりも、俺らの関係の方が重要だ」

そう、冷たく言葉を吐いて、息子は速足で行ってしまった。追いかけようにも…成人男性になった息子の足にかなうはずもなく…。

「…ああ。やっぱり…重い…」

眩暈を抑えながら、私も帰路についた。
家に帰っても…浩介はいなかった。


  ◇


「君の心配も分かる…でも、ぼくたちは、親だから。…浩介を信じてあげようよ…」

怒りにまかせて、緊急と。連絡をした遠方勤務の夫。
こんなプライベートな話。傍受されているだろう回線でする話じゃない。
でも、我慢できない。私ひとりじゃ、抱えられない。

「早く帰ってきて!あの子をどうにかして!」そう、捲し立てる様に伝えて、夫にSOSを飛ばす。懇願する。
それなのに、返ってきたのがこんな言葉。ああ…。

「…本当に…君にはいつも苦労をかけて…すまないね」

優しい声の夫。近所からも評判の…男前と評判だった夫。
家族思いの、優しい人。
…いや、違うわ。この人、浸ってる。会えない家族、でも全力で心配する父親の自分。そんな風に浸っている。
ああ、そんなの全く役に立たない。使えない。相談先…この人では役不足。本当に使えない。

「はぁ…もういいわ」

そう言って一方的に会話を終了。これ以上、話しても無駄。
サンドバッグにすらなりもしない…本当に役立たず…。

遠方勤務の夫。通話を切る寸前、慌てていた。
でも、いいの。こんな人よりも大事な連絡が入ったから。夫と話しているのは勿体ない。
手元のスマホ…急いで触る。…青木さんからの連絡が入ったから…。



『ええ…そうなのよ。頑ななの…寮に入るって。絶対に入るって…』

『ええっ!…学生寮に…?想太くんが…?』


日曜日、昼下がり。スマホアプリで通話。先方は…息子の恋人のお母様。
今日の今日…頭が上がらない、青木君のお母さん。

『浩介くんは、どうするの?って聞いても、涙ぐむだけで…フラれたのかしら?と思っても、そうでもない様だし…』

『うちの子が…想太くんを…?ない、絶対にそれだけは無いわ』

通話だけ、なのに。全力で頭を振る。浩介から想太くんをふる…。
それは無い。絶対に無い。宇宙人に体を乗っ取られても、絶対に無い。浩介に限ってそれは無い。

『…想太が、拗らせてるのよねぇ…ほんと、あの子。めんどくさいのよ…』

『いや…すごく。真っ当な…判断かも…』

朝、息子の部屋で見た光景を思い出す。青木君…いや、想太君。きっと身の危険を察知しているはず。
そりゃあそうだわ。私が「想太くん」と呼ぶだけで怒る息子。そんなのと一緒に…四六時中一緒に…体が持たないわ。

『浩介くんが一緒の方が安心。…って伝えても、想太ったら、悲しそうに「俺だってそうしたいっ!」って言うだけなの。
今日、そちらにお邪魔していたし…どうなったのかしら?と思って…』

青木さんの声、不安そう。そうよね…上のお子さんがいらっしゃるとはいえ、想太くんはかわいい息子さん。
本当に可愛い息子さん。…だから、あんな重い男に引っかかって…ああ。本当に申し訳ない…。

『そう…よね。二人、仲良くは…していたように…思うわ…』

苦しい。説明が苦しい…。本当は言いたい。お宅の息子さんを…うちの子が。本当にすみませんっ!って。
でも、言えない。想太くんの名誉のために…何だか言えない。いや、もう。私が始末すればいいのかしら。浩介、監禁でもしようかしら。
監禁…敵うはずがない。…返り討ち。絶対に合うわ。

『今日も、帰ってからずっと部屋に籠って降りてこないの…。喧嘩でもしたの?って聞いても、泣くだけで…本当に、想太ってめんどくさい』

溜息の青木さん。
ええ…想太くん。泣いているの…?理由…何かしら?原因は分かるんだけど、理由は何かしら?
原因は…まぁ、うちの子。それだけは分かるのだけど…。
ああ、やっぱり。あれかしら?あれ…相互納得のプレイ…じゃなく、やっぱり浩介の独り善がり…よね。
…想太くん。もう、浩介の事、振ってしまえばいいのに…。


「…ただいま」


捨てられてしまえ!そう息子の事を思っていたら、すぐ側に。肩に顔を乗せるかのように、息子がいた。
気配…全く感じなかった。…本当に怖い。我が子ながら、すごく怖い。


『あら!浩介くん?いつもありがとうね。またうちに遊びに来てね』

通話先、そこで青木さんがうちの子に声をかけてくれる…。優しく、声をかけてくれる。いたたまれない…。

「はい…こちらこそ。お世話になってます」

能面も驚くほどの無表情だった浩介。なのに、私からスマホを奪って、ニコニコとご挨拶。
あなた…ちゃんと、そういう事できたのね…!

「え…?泣いて…いるんですか?」

成長に驚いていたら、その息子が怖い顔。不動明王もびっくりの、怖い顔。
想太君の話になると、いつもこう。表情が別人みたいに豊かになる。
え?この子、うちの子ですか?そう思うくらいに、激情型になる。

「今すぐ、行きます…」

そう、青木さんに伝える時には、もう玄関に向かっていた。
私のスマホ、投げる様に。いや、投げて。浩介は玄関に駆けていく。
ああ、本当に。こんな子じゃなかったのに…。昔は、こんな子じゃなかったのに。

『浩介くん…ありがとう…ほんと、素敵な子で…』

投げられたスマホをキャッチ。通話先、青木さんがうっとりと、そう言ってくれる。
あんな浩介を、素敵な息子さん。そんな風に私に言ってくれる…。

最初は青木さんと互いの息子を褒め合ってキャッキャしていた…。でも、今はもう…申し訳なさ過ぎて…。
私も行きます…。そう、青木さんに伝えて、車に乗り込んだ。
だって、あんな足の速い男…追いつくはずないもの…。


  ◇


「想太っ…!」

「浩介…っ!」


ようやくの夕方。陽が沈む、そんな頃。
地平線には赤い、赤い太陽。そして、始まる宵…そして夜。

暮れなずむ街。若い二人は涙目で抱き合う。
まるで、何十年も離れていた。そんな風に、二人は互いを抱き締める。
ああ。二人っきりの時は、名前で呼び合っているのね…。

門扉の影、サンダル姿の青木さんが見える。青木さん、うっとりと二人を見てる。
電柱の陰の私。「さっきまで会ってたじゃない…」と、映画のような二人に呆れる。


「泣いてるって…聞いて…どうした?何かあったのか?」

「…浩介…っ」


…何かあったのか?じゃないわよ。我が息子ながら、本当に恐ろしい。
原因はあんたでしょうよ。あんなことして、あんな酷いなことまでして、なんで普通なの?
理由もあんたよ。なんで、そんな感じなの?もっと健全な交際ができないの?重いのよ!あなた!

「浩介…こうすけ…好き…大好き…」

「……想太」

想太君の未来のために、息子を消そう!そう思っていたのに。
当の想太くんが、浩介に抱き着く。好きって泣きながら。
当然、浩介は抱きしめる。ぎゅううって。強く、想太くんを愛おしそうに抱きしめる。
そして…然も当然かの様に…キス。二人、顔を近づけて、ゆっくりと…。

うっとり…。青木さんがそんな感じ。私だって、今朝の事が無ければ、きっと同じ様にしてる。
でも、もう無理。心配で仕方がない。想太君…心配になる。なんであんなことまでされておいて、浩介に…。
あれ?もしかして。この二人…相互依存…?

「浩介…ごめん。俺、本当に…めんどくさくて…ごめん」

泣きじゃくる想太くん。その体をぎゅうって、強く抱きしめる浩介。
ほんと、まるで映画のワンシーン。私まで感動しちゃいそう…。

「何が…ごめんなんだ?」

想太くんの涙にキスしながら浩介が、優しい。
あんた、そんなこと出来るのね…。息子の意外な態度に本当に驚きっぱなし。
間違いなく、うちの夫よりも、良くデキる。乙女心は、掴んでいる。

「本当は…俺も…一緒がいい…一緒に、暮らしたい」

「想太っ…じゃあ…」

「でも…っ…怖い。怖いんだ…」

泣きじゃくる想太くん。怖いって…ああ、何て可哀相。
聞いてるの浩介?怖いんですってよ。あなたが怖いから、想太くん。一緒に住めないのよ。
分かってる?自業自得なのよ!

「想太…何が怖いんだ?大丈夫だから…俺が一緒だから」

アンタが怖いのよ!そう出ていって、割り入って、叫びそうになる。
怖いって言われてるのに、まだ涙へのキスを続ける浩介。
強く、想太君の体を抱きしめる浩介。

「俺…浩介に飽きられるのが怖い…ずっと一緒にいたら、浩介…俺に飽きちゃう…」

『それはない!』

うっ。思わず私まで声が出ちゃった…。門扉の影の青木さんと目が合う。お互いに会釈する。

「そんなの、わかんない…だろ。浩介はかっこいいし、モテるし。今はまだ俺に新鮮さがあるかもだけど、おじさんになったりしたら…。若い子が良いって…なるだろ」

いやいやと、幼子の様に首を振る想太君。ああ…おじさんになるまで…なんて。
ナチュラルに浩介とそこまで…。ありがとう、だけどね。浩介はね…。

「想太。俺が想太に飽きる事は。絶対に、無い」

想太君の上気した頬を両手で挟んで、浩介はじっとその目を見つめる。
正面から、もう一度。ゆっくりと、教え込むように丁寧に伝える。

ああ。本当にそう。うちの子から…浩介から飽きる。それはない。絶対に無い。
本当に無い。怖い位に無い。あってほしかった…そう願うくらいに、無い。

…あれはまだ、浩介が小学生の頃。給食で食べたというメニュー、高野豆腐。
「美味しかったから毎日食べたい」そう言われて、ずっと作り続けた。
…でも流石に作るのが嫌になってきて、やめてしまった三年後の朝。
「なんでやめるの?」と責められた。そろそろ飽きたでしょ?そう返す私に「飽きないよ?」って、黒い瞳が返事した。
それからまた3年…。作り続けたけど、私がギブアップ。私が飽きた。もう無理って。

たかが副食の一品。それにすら飽きない…。そんなしつこいあの子が、想太君のこと、飽きるはずがない。
あれは、死ぬまで手放さないコース。墓までコース…いや、それどころか来世まで…!
ああ、やっぱり。想太君のためにも…浩介の事、ああ。

「想太…。そんなこと思ってくれたなんて…ありがとう。でも、俺に限っては本当に無いから。想太に飽きるなんて…絶対に無いから」

浩介は、そんな風に想太君に誓った。そんな浩介を見つめ返す想太君の目は赤い。
嬉しい…って瞳を閉じた想太君。その隙にキスをする浩介…。ほんと、こんな往来で…。
人が通らないからいいものの…全く親の前で…。

「もし…万が一。俺が想太に飽きる事があったら、俺を監禁して。ずっと想太の好きにして」

キスを止めて。唇を離して…うっとり。そんな風にしながら息子が言う。素っ頓狂な事を、平気で言う。

「え…?いいの?」

涙目の可愛い子。そう返す。ああ、だめ。この子、毒されている。

「ああ、そのかわり…。想太が俺に飽きたら、想太を監禁するから」

にっこり。うちの一人息子が笑う。
ああ、私には見える…。想太君がまた手足を縛られている未来が…見える。

「想太…だから、一緒に暮らそう。二人で、二人きりでずっと一緒に生きていこう」

息子のプロポーズ…。隠れてはいるものの、立ちあえるなんて…。
あんなに小さかった息子。冷たくなった先代犬を抱き締めて、昏い瞳をしていた息子…。
あの時の浩介を…思い出す。

「浩介…好き…大好き…ずっと一緒にいる。浩介とずっと一生いる…」

ぽろぽろ…と。想太君の頬を伝う、きれいな涙。
そこに、何度も口付けて。息子が笑う。嬉しそうに。それは嬉しそうに…。

ああ、良かったわね。浩介。
片思いじゃなくて…犯罪にならなくて…。
本当に…よかったわね…。


◇


「…と、いうことで。浩介は京都で同棲生活をするのよ」

「えー…。うーん。大丈夫なのか…それ。先方には…菓子折り…じゃすまないよな…」

「ワンオペ育児が良くなかったのかしら…いや、アレは浩介の生まれ持った性質ね。私のせいじゃないわ!」

「え…聞いてる?というか…今、どこにいるの?」

夫からの電話。良くかけてこられたわね…。と思うような電話。だから出てみたけど、大した話じゃない。
だから、面倒になっている通話。

「今?居酒屋よ。今日はオールで飲むわよ」

「え?なんで…?」


説明が面倒…でも仕方がないから、話してあげる。
あの後、想太君と浩介。往来で抱き合ったまま、キスを続けた…。
夜、桜が蕾を膨らませる季節とはいえ。やっぱり冷える。
だから、想太君は家に帰ろうとした。浩介を連れて…。

想太君に手をひかれて、嬉しそうな浩介。テンションが上がったのか、想太君を持ち上げるように抱きしめた。
「こら!」って可愛く、浩介を叱る想太君。浩介ったら家では見た事が無い位に、すごく笑顔。驚くほど笑顔。

笑い合う二人…じゃれ合う二人。
微笑ましくて、私も家に帰ろう…。そう思っていたら、浩介の上着から何かが落ちた。
避妊具…。それが、ぽとりと落ちた。

顔を赤らめる想太君…と、門扉の影の青木さん。
何事もないように拾う、浩介。
ああ。何この子。なんなの、この子…。

「…浩介…俺の部屋、行こう」

浩介の手の中の小さな箱、それを想太君の手が包む。浩介の大きな手、それごと包む。

二人は見つめ合う…。ああ、青木さん。卒倒しそう。
ああ、ごめんなさい。ごめんなさい。
そう、心の中で百万回詫びていたら、体が…動いていた。

「あっら!奇遇ね!浩介、想太く…青木君!」

驚く想太君。冷たい目になる浩介。
ああ、なんなのうちの子。本当に嫌。

「よ…よかったら。想太君。またうちに来ない?明日、自由登校でしょ?遊びにいらっしゃいよ」

青木家…その前で。我が家へと誘う。
想太君も青木さんも驚いている。
ええ、そうよね…。自分でも意味が分からない行動…。
でも、青木さんのお宅で…そんなこと…させられない…。申し訳なさ過ぎて…。

「母さんもそう言ってるし、うちに泊りに来いよ。母さん、今日は家にいないって言ってたし」

嬉しそうな浩介が、想太君の肩を掴む。腰を抱き寄せる。顔を近づける。
え?私。家にいちゃダメなの?浩介…あなた、私を家から追い出して…何するつもり…?

「え…でも。そんな毎日お邪魔したら…」

突然の私に、驚きはしたものの、想太君は会釈をしながら、遠慮する。
浩介の舌打ちがしそうで、私は必死にお願いする。とにかく我が家にきてと。懇願する。

「あーら!井田さん!早いわねー!今日は飲みに行く約束でしたもんねー!すぐいきますねー!」

青木さん。みかねて、参戦してくれる。
想太君、突然の自分のお母さんに驚いている。
浩介…は全部分かっていたみたい…。

青木さん。玄関先で旦那さんに「出かけてくるから、自分でご飯用意して食べてー!」
そう大声で伝えてすぐに戻ってきた。
サンダルから靴に履き替えて、上着をきた青木さん。すぐに戻ってきた。

「じゃあ、車で…とりあえずうちに戻りましょうか。さあ、青木さんに青木君…乗って乗って」

停めていた近所のパーキング。そこに四人で向かう。
浩介…青木さんの横にくっついて「想太さんの事、大切にします…」なんて言ってる。
いや、してない。してないわよね?あんた!…そう叫びたい気持ちを抑えて、車に乗る。
かわいい想太君。乗り込む時に「いつもありがとうございます」ってお辞儀した。
ほんと、なんでこんな子が…。ああ、ごめんなさい。よろしくね。


「…ということで、青木さんと飲みに来ているの。家に帰っても…多分、内鍵かけられてるし。面倒だから、今日はオールよ!」

「ええ…まだ未成年…ああ、成人したか。でもまだ学生だろ…そんな二人きりにして…!」

「うるさいわねー。そんなに文句があるなら、あなたが家にいればよかったじゃない」

へーい。お待ち!と店員さんの声が、席の方から聞こえる。
注文していた串焼き。それにモツ煮込。おいしそうな匂いがする。
もう、こんなどうでもいい会話。終わらせたい。

「母さん…浩介は…浩介は大丈夫なのか?そんな状態で同棲なんて…先方の息子さん…気の毒すぎるだろう」

慌てた夫の声。ああ、もう。うるさい。ほら、注文していた冷酒も届く。
升に入った冷酒のグラス。そこにとくとくと店員さんが注いでくれるやつ。
…だから、席に戻らなきゃ。なみなみ注いで、升に零してもらわなきゃ!

「母さん…俺。日本に早く、もどるように…」

なんか言ってる夫の声。途中で切れた。
つーつーと。通話の終了音。ふふ。私からまた切っちゃった。

「あーら井田さん!ちょうどいい!冷酒来たわよー。零してもらっておいたわよー」

同じく冷酒を注文した青木さん。升ごと二人で乾杯。それからぐびっと煽り酒。

「いやぁー。ほんと、申し訳ないなぁって。井田さんには、本当に申し訳ないなぁって。想太のこと、ごめんなさいねぇ」

顔を赤くした青木さん。味噌のカシラを食べながら、私に謝る。手元の冷酒、また煽る。

「何言ってんのよ青木さん。うちの方が…うちの子の方が…ほんとうに…本当に…」

零れた酒を升からグラスに移して、私もそれを煽る。豚バラの串焼き…おいしいわ。

「うちの子ねぇ…想太ねぇ…。むかしっからあんな感じなのよ。ふわふわしててねー。男の子なんだけどねー。男の子ではあるんだけどねぇ…なーんか、女の子と付き合う感じがしなかったのよ…」

そう言って、串を齧る青木さん。ああ、楽しいわね。お酒…美味しいわね。

「浩介なんて…人と付き合う日が来るなんて思えなかったわ…。あんなにめんどくさい子…本当に、本当に…」

互いに泣きながら、お酒を飲む。空のグラス、気が効く店員さんが「同じものでいいですかー?」なんて言ってくる。

「あ、ボトルにするわ!井田さん、焼酎でもいい?いやぁ本当にね。チャラい男にでも引っかかったらどうしようと心配してたの。だから、浩介くんを連れてきてくれて…。あんな素敵な、かっこいい子。連れてくるなんて…ほんと、想太。でかしたわー」

店員さんに、お湯と梅干しを!と注文をして、モツ煮もおかわり。焼酎のお湯割り…美味しいわよね。あったまるわよね。

「うちこそ、本当にありがたいの。私、想太君が好きなの。綺麗な子が好きなの。ほーんと、嬉しい。大好きなの!」

酔っぱらってる。自覚はある。でも、堂々と推しの話ができる。こんなチャンス、逃せない。

「私の方こそ、浩介くんが大好きよー!あんな男前、なかなかいないわ―!想太、グッジョブだわー!良く落としたわー」

青木さん。去年の文化祭の話をしてくれた。想太君がシンデレラをやった文化祭の話。
とうとう、我が息子が本気になったと…そう思ったという文化祭の話。
想太君…その頃から浩介の事…。ああ、そうだったのね。

「かわいいわよねぇ…私、写真を財布に入れてるもの…シンデレラ。凄く似合ってたわ」

そう言って、青木さんに写真を見せる。勿論、データはスマホにある。でも、現像して手元に置いておきたかった。

「えー井田さんも?私もね、持ち歩いてるの。ほら!浩介くんの王子様。かぁっこよかった!」

お互いの息子の写真。財布から出して、ニカッと笑う。
焼酎のボトル…あっという間に空になる。こんな楽しいお酒、初めてかもしれない。

日曜日…それが終わるころ。日付が変わる。そんな頃。
青木さんと一緒に、京都に行く話をした。襲撃してやりましょう!そう笑い合った。

「今頃、ナニしてるのかしらねー」

「ナニしてる。でしょうねーうふふー」

酔っ払い。品よく、酔っぱらうなんてできない。
合格祝い、二人で出し合ってベッドでも贈ってあげちゃう?なんて青木さんと笑い合う。
そろそろ、カラオケでも行っちゃう?なんて、笑い合う。

春の夜。桜…花びらがひとつ。舞い散る夜。
まだ、蕾だとおもっていたのに…咲いている木もあるのね…。
そう、思いながら、青木さんと二軒目に向かう。

―― 浩介…がんばってね。

卒業する息子。もうすぐ、卒業して、巣立つ息子。
我が家に…好きな人と部屋にいるだろう息子に、そっとエールを送る。

貴方が、恋人の手を離すことはないでしょうけど…。想太くん…あなたよりもすごくデリケートだから…。
ちゃんと、よく。考えて…。想太君の気持ちを、しっかり考えて。
そうしないと…あなた。独りになるわよ…。ずっと一生、独りに…。

「井田さーん!こっちこっち!」

明るい声の青木さん。呼んでくれる方へ、私は進む。
こんなに気が良い人が、身内になるなんて…。本当によかった。

―― 浩介…あなたの毎日が素晴らしいものになりますように!

そう、思って。息子の事を思って春の道をゆく。
好きな人と、ずっと一緒にいられると良いわね。
ずっと、ずうっと。一緒にいられると良いわね。

…そう、母たちは息子の幸せを祈るのです。
育児の終わり…いや、ひと段落。それを母たちは労い合って、祝うのです。
貴方たちが幸せであるようにと…。ずっと続きますようにと…。




終




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